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タウン通信は北多摩エリア(西東京市・東久留米市・小平市東部・新座市一部)、所沢エリアで発行している地域情報紙です。


所沢〜西東京の地域情報を発信

猫耳南風

○○○○○○○○イメージ
  • 文・志賀 泉(小説家。代表作に『指の音楽』〈筑摩書房、太宰治文学賞受賞作〉、『TSUNAMI つなみ 』〈同社〉)
    ※志賀さんは福島原発事故による警戒区域内の福島県南相馬市の出身。震災後、被災地や避難所を訪ね、支援活動を行っている。そのレポートや故郷への想いなどをブログ(http://ameblo.jp/sigahina/)で公開している。

さすけね。んだ。

 

震災以来、「がんばっぺ」という言葉を東京でもよく目にしたり耳にしたりする。

福島県の南相馬市で生まれ育ち、いまだ方言コンプレックスの抜けない僕に は妙な感じだが、「がんばろう」よりユーモアがあり、肩の力が抜けていいかもしれない。この際だから「tsunami」みたいな国際語になればいいのに。  

ところで、福島県の二本松市で「さすけねぞい」と福島県民にしか通じそうにない方言を使った幟(のぼり)を目にし、僕自身長く忘れていた言葉なので新鮮 な思いがした。

「このくらいの怪我、さすけねえ」とか、そういえば僕も口にしてたな。  

「さすけね」とは、「心配ない」くらいの意味。標準語にすると前向きなようだが、ニュアンスはそう単純ではない。目の前の困難はなにひとつ解決していな いけれど、取りあえず痛みをこらえて前に踏み出そう、というやせ我慢の心境が「さすけね」なのだ。

沖縄方言の「なんくるない」(=なんともない)に似ているけど、「なんくるない」が苦しみを突き抜けて笑ってしまおうという開放的な言葉なのに対して、 「さすけね」は苦しみを横に振り払う。問題はひとつも解決してないけど強気だけは見せておこうという、苦々しい言葉なのだ。

「んだ」も、テレビなどでよく耳にするようになった。「うんだ」が縮まった言葉だが、「そうだ」と簡単には訳せない。

「ん」で口を結び、何かをぐっと腹に収めながら、「だ」と断定する。肯定しながら口籠もる。口籠もりながら語気は強い。怒りも、諦めも、悲しみも、「んだ」の一語で噛み締める。「んだ」は、耐え難いことにも耐えてきた東北人の、苦い苦い肯定なのだ。

実は、ブログで連載している「新明解国語辞典小説」を「ん」の段まで書き終えたのだが、「ん」の段のタイトルが『んだ』なのだった。連載中に東日本大震 災があり、原発事故のおかげで僕の実家が警戒区域に指定されたりして、作風は途中からずいぶん変わった。

連載を自分の故郷の方言で締めくくるのも何かの因 果だろう。  『んだ』の公開は先のことになると思うが、興味のある方はぜひ、ご覧ください。ブログ http://www.stand-fight.com/blog/shiga/

(2012年1月18日)

ささやかな幸福の断片

僕が住んでいるのは川崎市の丘陵にある団地で、どこへ行くにも急な坂道があるものだから、バイクを利用している人は多い。僕もここに引っ越してからバイクに乗り始めた。

団地にはバイク専用の駐輪場がある。その駐輪場に、ささやかな異変が起きている。

バイクのハンドルの、尻の部分に穴が開いているタイプがあるだろう。その穴が気になるのか、一匹の蜂が穴を覗き込むようにしているのを見かけたのは半月前だったか。獲物になる虫を探しているのかと、さほど気にかけずにいたが、それから数日して、その穴は見事に泥で埋められていた。

ああ、なるほど。なんという蜂か知らないが、ハンドルの穴を巣穴にしていたわけか。なんて横着な蜂だ。自然物だろうと人工物だろうと、そんな区別は関係ない。手ごろなサイズの穴を見つけ、どうやら清潔そうだし外敵もいないようだし、これ幸いと卵を産みつけ、ひょっとすると餌になる虫も埋め込んで、穴を泥でふさいだのだ。

もちろんそのバイクは現役だ。蜂の卵を産みつけられたまま街路を走り回っているのかと思うと可笑しかった。何が可笑しいのか理由を説明しろと言われても困るが、やっぱり可笑しいものは可笑しい。

しばらくして、巣穴はバイクの持ち主によって無残にも掻き出されてしまったが、蜂のほうは負けていなかった。ハンドルの尻に穴が開いているタイプのバイクはそれ一台きりではない。ハンドルの尻に穴を見つけ次第、ことごとく(といっても四台だけだが)巣穴にしてしまったのだ。バイクの持ち主は気づいているのかいないのか、巣穴はいまのところ無事でいる。

どうかそのままにしてほしい。だって、蜂の巣があるバイクを乗り回すなんてイカスじゃないか。ささやかではあるけれど、これも幸福の断片なのだ。

惜しむらくは僕のバイクで、ハンドルの尻に穴がない。もしも穴が開いていて蜂が卵を産みつけてくれたら、僕は卵が孵るのを楽しみに待つことができたのに。それは仕方がないから、代わりに、他のバイクの巣穴をチェックしている毎日だ。

(2011年10月19日)

風邪の効用

生まれて初めて救急車に乗った。

会社がお盆休みに入ると同時に猛烈な咳が出始め、旅行の予定をキャンセルして伏せっていたのだが、十四日の深夜に四十度近い高熱が出て、たまらず救急車を呼んだ。

病院で診察を受け下された診断は、気管支炎。どおりで尋常でない咳だと思った。ふつうの咳を散弾銃とするなら、バズーガ砲並みの勢いがある咳だったのだ。

明け方、タクシーで家に帰り鏡を見たら、やけに白髪が目立った。マリー・アントワネットではあるまいし、まさか一晩で髪が白くなったはずはない。徐々に増えていた白髪に今ようやく気づいたのだろう。

やっぱりなあ、と思う。
よほど疲れていたのだなあ。

三月十一日からこっち、心身ともに静養したと言える日は一日だってなかった。それに加え、八月に入ってからの記録的な猛暑。僕は警備員をしているから、炎天下の労働は熱中症との闘いでもあった。仕事が終わっても夕涼みに仲間と一杯やるわけではなく、家に飛んで帰って晩飯を食べれば食休みもそこそこに、あちこちへ連絡したり書き仕事をしたり。ずっと、我が身を追い込んでいた。

だから、寝込んだ初日はほぼまる一日、熟睡していた。体を壊して、やっと休養がとれた。その意味では、体を壊して逆に助かったような気がしたのだ。
小康を得て外出し、古本屋で野口晴哉著の『風邪の効用』(ちくま文庫)を買う。
「風邪は体の洗濯のようなものであって、体の偏り疲労を除去する自然の方法です」とある。また、「風邪は病気というよりも、風邪自体が治療行為ではなかろうかと」も。

風邪は治療するのではなく経過するもの。上手に風邪を引いていれば健康を保てると説く。風邪を悪いものと決めつけずに受け入れれば、自ずと体調は好転する、ということか。逆に、早く治そうと処置をすれば寿命を削る。風邪を引いているうちはまだましで、風邪を引かない人ほどころりと逝ってしまう場合が多いらしい。

著者は整体法の創始者だが、ただの健康法を越えて「自然対文明」まで考えさせられてしまいそうな、奥行きの深い本だ。

(2011年8月31日)

海を聴く

僕の故郷の南相馬市小高区(旧小高町)は、昔は機織りの里として知られていた。
僕が生まれた頃は輸入物に押されて下火になっていたが、それでもお城に近い集落では、あちこちからシャカコンシャカコンと機織りの音が聞こえていた。

それは海で聴くさざ波の音に似ていた。じっと耳を澄ませていると心が吸われていく心地がした。あれは機織りの音と頭では承知していても、不思議なことに変わりはなく、さざ波が耳元に打ち寄せてくる、その錯覚に心を委ねていた。
子供の頃のこの記憶が、沖縄を舞台にした小説『TSUNAMI』につながる。直接に津波を書いた小説ではないが、なにか因縁めいたものを感じるのは、考えすぎだろうか。

緑の木々が、風を受けてざわめく。その音にも海を感じる。無数の葉の擦れ合う音が、波がくずれて打ち寄せてくる音に似ているのだ。一瞬、ざわっと鳥肌立つ思いがする。細胞が泡立つような感覚だ。

なにも林の中に限ったことではない。都会の街路樹の下を歩いていても、それは起こる。僕の体に沁みこんだ海の記憶が、折に触れて反応するのだ。すると、無性に海を見たくなる。

「海についてどう思うか」時々そんな質問を受ける。どう答えればよいものか、返答に困る。津波の被害がどれだけのものであっても、体に深く染みついた記憶は、そうやすやすと変わるものではない。

海は海だ。やさしくて荒々しくて、物静かで騒がしい。「どう思うか」と問われても、物思いが吸い取られて頭が空っぽになるのが海だから、答えようがない。

僕の故郷では、相馬野馬追(七月二十三〜二十五日)という祭りが終わると、海水も温み海水浴の季節が始まる。子供たちが勇んで海へと繰り出す。今年は誰も泳がないだろう。故郷は立ち入り禁止のまま、津波に呑み込まれた多くの人も、海に沈んだままだ。

それでも、人の思いとはまるで無縁な顔をして、故郷の海は無人の浜に波を打ち寄せ続けるのだろう。今、僕がこれを書いている間も。

(2011年8月3日)

ワーニャ叔父さん

「人間は物を考える理性と、物を創り出す力とを、天から授かっています。それでもって、自分に与えられているものを、ますます殖やして行けという神様の思召しなんです。ところが、今日までの人間は、創り出すどころか、ぶち毀してばかりいました」

「つまりそれは、力にあまる生存競争の結果なのです。言い換えると、無気力と無知と、徹底的な無自覚とが、今日このような情勢の悪化を招いたそもそもの原因なので」(『ワーニャ叔父さん』神西清訳 新潮文庫)

ロシアの戯曲家、チェーホフが劇中人物にこう語らせたのは一八九六年のこと。ロシアの田舎で森を守ろうと木を植えている医師のせりふだ。十九世紀末の嘆きは、二十一世紀に入った今日でも切実に響く。チェーホフの戯曲を読んだ人は誰でも、百年以上前の人間の苦悶や悲嘆が、現代人にも重なることに驚くはずだ。名作とはそういうものだ。古い言葉が、時代時代によって新たな生命を持つ。だからこそ名作は読む価値がある。

チェーホフは、登場人物にこれでもかというくらい悲惨な運命を与える。社会的な成功など救いにもならない。森に木を植えている医師もその一人だ。

医師は、「もし千年ののち人間が仕合わせになれるものとすれば、僕の力も幾分はそこらに働いているわけなのだと、そんな気がしてくる」からと、木を植える。

もちろん、千年後には医師の名前などきれいに忘れ去られて、存在しなかったも同然になる。しかし、そのむなしさを知りながら木を植え続けるのは、彼が人生に絶望しているからだ。絶望しているからこそ生存競争を越えて、未来に希望を託せるのだ。

ワーニャ叔父さんは、馬鹿正直に他人に尽くし人生を棒に振る。哀しみにくれる彼に、「生きていきましょうよ」と姪が慰める。その言葉は感動的だ。
「いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。運命がわたしたちにくだす試みを、辛抱づよく、じっとこらえていきましょうね。(中略)そして、やがてその時が来たら、素直に死んでいきましょうね」。その時には、私たちの悩みも苦しみも「神さまの大きなお慈悲のなかに、呑み込まれてしまうの」。
「神さま」を「千年後の人間」に置き換えても意味は通じる。むしろチェーホフのテーマはそこにある。

未来を信じられたら、たとえどんなに不幸な人生であっても、無意味ではない。

(2011年7月13日)

避難所をめぐって

避難所になった体育館の中で、お婆さんは一人ぽつんと蒲団に座っていた。ボランティアによるマッサージや足湯のサービスもあるけれど、お婆さんはどうも、そういうのは苦手らしかった。

お婆さんの家は海のそばの集落にあった。向かいの家に茶飲み友だちがいたが、津波から逃げる途中で別れ別れになった。体育館には百人近い避難者がいるが、知らない顔ばかりなのだ。

足湯サービスに誘っても動かない。「足が悪いのですか」と尋ねたら、「これがあれば歩ける」と、古びて壊れかけた、掴まり歩き用のカートを僕に見せてくれた。
「新しいものに変えたらって言われんだけども、十年もこれを使ってきたんだからなあ」と、皺だらけの手で、錆びついたカートの表面を愛おしそうに撫でていた。

「夜はなあ、トイレさ行くと音を立てて周りに迷惑かけっから、なるべくトイレさ行がねよう昼間から水を飲まねえようにしてるんだ。体に悪いよって言われんだげどもなあ」と、申し訳なさそうな顔をする。

非常用トイレは体育館の外にある。冬の間はことに辛かった。しかも非常用トイレは段差が高く、転んで怪我をしたお年寄りもいたそうだ。いまは体育館内に簡易トイレが置かれ、「とても助かったぁ」とお婆さんは微笑んだ。

お婆さんは蒲団の周りに身の回り品を置いて生活していた。枕元に飾ってある、動物の絵が入ったトレイが僕は気になり、「これは何ですか?」と尋ねてみた。マグロ漁船で働いている息子さんの海外みやげだという。お婆さんの自慢の息子だ。
「他にもあったんだけど、いい物はみいんな盗まれちまって」
被災後に侵入した泥棒に、値打ちのありそうな物は持っていかれてしまったのだ。

「これはな、子供が置いていったものだげども」と、メッセージ入りの折り鶴を僕の前に置いた。お婆さんはその折り鶴をとても大切にしているようだった。
お婆さんとの話を終え、僕は体育館の中を歩き避難者ひとりひとりに声を掛けていった。ひととおり回り、することもなくなったので元のお婆さんのところに戻った。

「おかえりぃ」と、お婆さんは僕を迎えてくれた。あの、やさしさにあふれた声が、いまも忘れられない。

(2011年6月1日)

「死んだって一回」

僕の遠縁にあたる人が二名、行方不明だったのが、先日遺体で発見された。なお二名が行方不明のままだ。どちらも海沿いに家があった。

悲しいのはもちろんだが、ことさら悲惨ぶるつもりはない。なにせ狭い町だから、昔から家がある者なら、血縁をたどっていけば何人かの犠牲者とつながるはずだ。

同情はいらない。僕も同情で支援活動はしない。なぜなら、同情とは相手を「弱者」におとしめることだから。今の僕らに必要なのは、同情ではなく、被災者と「共に生きる」という感覚のはずだ。

「東北の人間は強い」。最近、こんな言葉をあちこちで目にしたり、聞いたりする。東北に生まれた一人として、僕もそう思う。なぜ強いのか。東北人の無意識には「死者と生きる」という感性が伝統的にそなわっているからではないか。たとえば、有名な相馬盆歌の三番の歌詞をみなさんはご存じだろうか。「ハア〜 盆はうれしや 別れた人もよ 晴れてこの世に 会いに来るよ」だ。死者を悼みながら、明るく前向きに生きて行くのが東北人の基本精神だと僕は思っている。

今回の震災以後、よく思い出す言葉がある。「死んだって一回」だ。僕が子供の頃、大人たちがよく口にし、子供らも面白がって真似た。難儀なことに直面した時、気持ちに踏ん切りをつけて重い腰を上げるのに、苦笑いしながら口にした言葉だ。とてつもなく強い言葉ではないか。

人生は思うようにならない。どれだけ正直に生きようと、運命の一撃で不幸に見舞われることがある。しかし死ぬより悪いことは起こらないものだし、誰だろうと必ず死ぬ。そして、それは一生に一度きりなのだ。そう考えれば、大抵の苦難は乗り越えられるはずではないか。

ここには運命を受け入れる潔さがあり、嘘でもいいから笑っておこうという、やけくそ気味なユーモアがある。そしてその裏には、すでに死んでしまった人への思いが隠れている。戦争や天災などで何度となく苦汁をなめてきた東北人だからこその、図太さを感じる言葉だ。この言葉を持つ東北人は強く、しぶといはずだ。

僕は故郷の再生を信じる。その一方で、故郷が消滅してしまうのではないかという危機感も抱いている。しかし日本人のみんながフクシマの再生を願うのであれば、それは防げるはずだ。どうか、僕の故郷を見捨てないでほしい。僕も日々、故郷を再生させる方法を、ない知恵を絞って考えている。

(2011年4月20日)

故郷は

僕は福島県南相馬市小高区(旧小高町)で生まれ育った。今回の地震と津波で壊滅的な被害を受けた、あの土地だ。

高校は双葉高校。福島原発のお膝元にあり、十キロと離れていない。

双葉町は原発でもっているような小さな町だ。高校も東京電力から寄付金等の恩恵を受けてきた。

硬式野球部のキャッチフレーズは「アトム打線」。核分裂した原子のように四方八方に打球が飛んでいく、の意。甲子園に出場すれば(過去二回出場)多額の寄付金が舞い込む。応援は東電のPRも兼ねていた。そして試合後には新しい施設が増えるといった具合だ。

毎年、入学したての春の遠足は原発見学というのがお決まりだ。広報センターで原子炉の模型や映画を見せられ、発電の仕組みや安全性を吹き込まれる。映画の終わり、「大熊町(原発のある町)はさびれた町でした」のナレーションが入ると僕らは、大熊町から通っている同級生を振り向いて大笑いした。もちろんその後には「原発のおかげで活気ある町となりました云々」が続くのだ。 芝生の公園で弁当を食べた後、みんなで円陣を組みバレーボールをした。女子が飛んだり跳ねたりするとスカートがひらめくのを、僕ら男子は大いに喜び、ひやかしたものだ。

見晴台からは、遠くに青い水平線と目と鼻の先に原発の建物が見えた。

僕らは何の疑問も抱いていなかったわけではない。危険性を認識しながら頼らざるを得ない、弱者の論理は僕らのものでもあった。

「安全だ」と言われればそれを信じるしかないではないか。せいぜい、苦笑で応えることくらいしか僕らにはできなかったのだ。

公園でバレーボールをした、あのみんなは無事なのだろうか。海のそばに家のある者もいた。原発に勤めていた者もいるはずだ。それを考えると心がつぶれそうになる。今、これを書いている間も涙が出てくる。

とにかく支援が必要だ。この場を借りて僕からもお願いします。お金とは限りません。さまざまな手段があるはずです。どうかお力をお貸し下さい。





(2011年3月18日)

雪の朝の思い出

二十歳から二十四歳まで、僕が住んでいたのは木造アパートの四畳半だった。築何十年か知らないがとにかく古い。壁は薄っぺら。雨漏りなんて序の口。しかも困ったことに、建物が傾いていて窓がきちんと閉まらなかった。窓と窓枠の隙間に細い細い三角形の隙間ができるのだ。

もちろんサッシではなく木製。鍵はねじ式だが、僕が住んでいた四年の間にも傾き度はどんどん増し、しまいには鍵と鍵穴の位置がずれて差し込めなくなった。

泥棒の心配なんてしない。部屋のドアにさえ鍵を掛けたことがなかった。それより問題は、窓の隙間から容赦なく雨風が吹きこむことだ。

ガムテープで隙間をふさぐとか、今ならそれなりに対策を講じる。しかしその頃は不思議と何もしなかった。畳が濡れても放っておけばいつか乾くし、寒いのは我慢すればいい。なんだか馬鹿みたいだが、若さとはそういうものかもしれない。

冬は冗談抜きで寒かった。蒲団の上にジャンパーやらセーターやら掛けられるだけ掛けて寝たが、それだってそう多くはない。寝酒は欠かせなかった。体を温めるというより、酔ってわけがわからなくなって一気に寝てしまうのだ。

夜中に吹雪が吹き荒れた日の、朝の光景は忘れられない。

目覚めてみたら、窓の隙間から吹き込んだ雪がひと筋、畳の上に山なりの白い線を引き、その先は蒲団の端にまで及んでいた。雪はやみ、空は快晴。ガラス越しに差し込む朝日に、ひと筋の雪がきらきらと輝いて見えた。

後にも先にも、あんなにきれいな雪を僕は見たことがない。

先日、東京でも雪が積もった。今では団地住まいになった僕だが、雪の日の朝にはやはり、あの光景を思い出す。

(2011年2月22日)

35年目の夜景

友人を女湯に閉じ込めたことがある。中学時代の修学旅行。よみうりランド内にあるホテルでのことだ。

「案内板と入り口とで『男湯』『女湯』の表示が違います」という先生の注意をろくに聞かず、友人と廊下をぼんやり歩いて「お、ここだここだ」と引き戸を開けたら、中で着替えていた下着姿の女子と目があった。

声も出ず、凍りついた僕の横をすり抜けて入っていく友人。次の瞬間、思いきり僕は戸を閉めていた。反射的に手が動いたのだ。

しんとして、反応がない。その時間の長かったこと。けれどおそらく、一秒かそこらの時間だ。「きゃあ」と甲高い叫び声が立つと同時に、顔をまっ赤にした友人が飛び出てきた。笑い転げながら廊下を走った。「やべえ」という気持ちと「得した」という気持ちが半々。いや、「得した」気持ちが八割か。

その友人とはギター仲間だった。フォークギターを学校に持ち込み、休み時間や放課後に井上陽水や吉田拓郎を歌っていた。

さて、ゆっくり男湯につかった僕らは、非常口のドアが開くことを発見し、外に出た。暗闇にジェットコースターのレールが交錯し、はるか彼方に東京の夜景が見えた。僕はなぜか井上陽水の『能古島の片思い』という曲を思い出していた。

非常階段に座り、友人とどんな話をしたのだったか。よく思い出せないが、大半は女子の話だったろう。

「わあきれい」「宝石箱みたい」という声が背後から聞こえ、女子がどやどやと非常口から出てきたので、僕らはこそこそ退散した。

それが、三十五年前のことだ。

昨年末、よみうりランドの隣にある団地に引っ越した。目と鼻の先にある絶叫マシンから、悲鳴や歓声がダイレクトに届いてくる。

夜には、東京のきらびやかな夜景がベランダから一望できる。位置こそ違え、方角的には修学旅行で見た夜景とほぼ重なるはずだ。

安さと日当たりのよさで決めた新居だったが、この眺望は思いがけない贅沢なおまけだった。

毎晩、風呂上がりに煙草を吸いにベランダに出る。たまには、今でも好きなフォークソングのCDをかける。ふと、目の前の眺望に修学旅行の記憶が重なる。

つくづく、人生って不思議だなあと思う。

(2011年2月2日)

2001年の大晦日

五日市線の終点、武蔵五日市駅で電車を下り、長い坂道をてくてく歩いていると、暗い山峡(やまかい)に除夜の鐘が響き始めた。

2001年の大晦日を忘れない。二十数年に及ぶ書店員生活最後の日。年が明ければ僕は失業者だ。経営不振を理由に解雇されたのだった。

ひとり、最後の仕事を終え、仕事場に黙礼してから、電車に乗った。行き先は、あきる野市の山間にある小さな寺。集落の人が共同で支えている無住の寺だが、仕事で知り合った画家の夫婦が、いわゆる堂守(どうもり)をして安い家賃で住んでいた。

お寺の大晦日といえば厳かな空気に包まれているものだろうが、住職のいないお寺では、集落の人が焚き火を囲んで酒を酌み交わし、なんとも自由で、おおらかだった。飛び入りでやってきた僕をつかまえ、すぐさま大鍋のけんちん汁を振る舞う。寒々とした思いで坂を上ってきた僕が、一杯の酒でいとも簡単になごんだ。

集落のお寺を住民たちは、宗教を超えた、もっと広い意味での拠り所にしていた。

子供たちは気ままに鐘をつき、誰も回数を数えない。焚き火にくべる薪がなくなれば、墓地で古い卒塔婆(そとば)を掻き集めてくる。鐘の中に首を入れて鐘をつき、内側から音を聞いたりもした。(僕も試してみたが、意外と音は響かなかった)。

みな、屈託がない。日々の暮らしの憂さも、年越しの夜を楽しめば浄化してしまえる。今年がいい一年だったように来年も息災のはずだと、軽々と信じてしまえるような、したたかさがあった。

転機の日を、こんなふうに過ごせたのは幸運だった。失業は必ずしも不運ではない。見方を変えれば、職場の束縛が解けて未来の可能性が広がったのだ。

個人で出版社を立ち上げようと、僕は計画していた。悪戦苦闘は目に見えていたが、嘘でもいいから希望を持てと、自分を奮い立たせていた。成功者は一握りだが、おおぼら吹きなら誰でもなれるのだ。

2001年の大晦日、不安に震えながら、同時に僕は楽天家だった。あのお寺に集っていた人たちの陽気さが、僕をそうさせた。

もっと響けと願い、繰り返し鐘をついた、あの夜を僕は忘れない。

(2010年12月8日)


バナースペース