2018.11.14 話題

市史で見る“この町の明治維新”〜明治150年の文化財ウィークに考えてみた〜

 

  明治元年から150年にあたる今年、各所で関連イベントが開かれている。HNK大河ドラマでは、維新の立役者の一人、西郷隆盛が主役。そんななかでふと考えた。この地域の明治維新はどんなだったのだろう――?
というわけで、各市の市史をひもといてみた。

 


 江戸幕府が幕を閉じたのは1867(慶応3)年。市史をひもとくと、その数年前から、地域が無法状態と化していたことが分かる。

 

 長州征討軍の進発のために村々は上納金や人手を取られ、戦の影響で物資は不足。米を筆頭に物価が上がり、人心は荒れ、白昼堂々、集団で強盗に押し込む連中もいた。この事態に、田無村では、自衛のために洋式小銃100丁を拝借したいと代官所に願い出てもいる。

 


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 こうした社会状況の中で、地域に農兵が誕生する。士農工商の身分制度により武器を手にすることなどあり得なかった農民たちだが、ゲベール銃が貸与され、教官から軍事訓練も受けた。

 

 

そんな彼らが活躍した事件の一つに、「武州世直し一揆」がある。現在の飯能市とその周辺村落から始まった66(慶応2)年の一揆は、またたく間に広がり、2日後には東久留米市の柳窪にも到達。そこへ、田無農兵隊が駆けつけ、「討取8人、生捕13人、手負83人余」と打ち破った。もっとも、自衛といえばそうだが、農民が農民を討つという、何とも痛ましい事件でもあった。

 


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 そのような不穏な世相のなかで新政府が発足。明治元年となる68年に戊辰戦争が勃発し、4月に江戸城が無血開城される。が、旧幕府側の抗戦派は収まらない。

 

 

その一つの部隊に、上野の山を占拠した彰義隊がある。そこから分裂して生まれた振武軍は、およそ300人の規模で田無に拠点を置く。

 

 

なぜ田無だったのか――。そのことについて田無市史は、交通の要衝であったこととともに、名主の存在を指摘する。

 

 

「田無の下田半兵衛は旧幕組合や改革組合の惣代をつとめ、いわば北多摩の支配行政の中心点のひとつであった」

 

 

というわけで、総持寺の前身である西光寺などに居座った振武軍は、ごく短い期間で、半兵衛の力も利用し、周辺の村から3600~3800両もの軍資金を徴収することに成功している。
 その後、彼らは転々とし、最後は飯能で敗れるのだが、新政府の追討軍も、田無を拠点にして軍備を整えている。

 

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 このような争乱続きのなかで、人々は新政府に大きな期待を抱いた。

 

 

当時は不作でもあり、生活の苦しさもあった。特に69(明治2)年の飢饉は激しいものだったという。 

 

 

ところが、庶民の期待に反して新政府が始めたのは、社倉米の取り立てだった。粗っぽくいえば、要は増税だ。しかも、地域の従来の慣習を無視する取り立て方だった。

 

 

これに怒った農民たちは、大挙して日本橋浜町の県庁まで訴えに出向く。強訴にならぬよう、彼らは門前での訴えに徹したが、不当に弾圧され、約50人が捕縛、少なくとも4人が牢死させられた(人数は文献で異なる)。

 

 

「御門訴事件」といわれるこの騒動は、発足間もない新政府のもとに農民たちが押し掛けたということで、世間に大きな衝撃を与えた。後の自由民権運動につながったという評価もされている。

 

 

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最後に、この地域らしい話題を。

 

 

開国で来日した外国人がその技術に驚愕したとも伝えられる「玉川上水」。江戸市民の生活を支えた上水だが、70(明治3)年に運送用の船が通っている。江戸時代は市民の上水ということで許可されなかったが、通船で地域活性化を狙った地元の思いが通じた形となった。

 

 

もっとも、案の定というべきか、通船は水質悪化を理由にわずか2年で中止させられている。

 

 

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 西東京市郷土資料室で30日まで特別展開催中。東村山ふるさと歴史館でも企画展開催中。

 

<外部リンク>

西東京郷土資料室