東京大空襲で人生が変わった――。谷戸の86歳男性が振り返る

2021年3月31日

コロナ禍で移動が制限される2021年の春。
それでも無理を押して、3月10日に浅草寺そばの隅田川を訪ねた西東京市の男性がいました。

古谷康之さん、86歳。

西東京市谷戸町に半世紀以上暮らし、谷戸商店街協同組合で今も事務局を務める古谷さんは、実は1945年(昭和20年)の東京大空襲で両親・兄妹の合わせて5人を亡くしています。

これまで自身の生い立ちについては詳しく語ってきませんでしたが、今回タウン通信に、特別に重い口を開いてくださいました。

東京大空襲を語る、西東京市谷戸町の古谷康之さん

10歳年上の姉が空襲体験を語ってくれた

現在86歳の古谷さんは、4男3女の4男として浅草に生まれ育ちました。当時10歳(小学4年生)だった古谷さんは、母方の実家である千葉県佐倉市に疎開していたため空襲は免れましたが、浅草の家にいた家族が空爆にあい、両親、兄妹合わせて5人を亡くしました。

奇跡的に長兄と姉・喜久子さんは助かり、喜久子さんは96歳となった今も健在です。

空襲のことは思い出したくない、言いたくないと、長い間話さなかったそうですが、古谷さんは、亡くなった家族や当時のことを知りたい一心で、少しずつゆっくりと時間をかけて聞き出しました。

よく知られるように、深夜に始まった大空襲では、約2時間で33万発以上の焼夷弾が投下され、一夜で10万人が死亡、罹災家屋は27万戸にのぼったといわれています。

その弾幕の下を生き延びた喜久子さんの言葉は、想像を絶するものでした。

隅田川に慰霊で訪ねた古谷さん兄姉。右が古谷康之さん(言問橋を背景に)

 

96歳の姉・喜久子さんの回想〜古谷さんの語りから

姉・喜久子さんの回想を、古谷さんは自身の体験を交えながら、以下のように語ってくださいました。

 * * *

「私は当時、母と三男の兄、妹二人と一緒に佐倉に疎開していましたが、東京大空襲の4日前になる3月6日に、父親の体調が悪いとの知らせを受けて、母が浅草に戻ることになりました。

みんなで佐倉の駅まで見送りにいったのですが、妹二人が『お母さんと一緒に行く』と泣きわめいてききませんでした。

兄と必死に止めたのですが、結局、東京に帰ってしまいました。駅で三人を見送ったのが最期の別れになりました。

10日に爆撃が始まると、母と次兄、妹二人が先に隅田公園に避難しました。そのとき母は、姉に『先に行って待ってるよ』と言ったそうです。姉はその後ろ姿が目に焼き付いていて、『今でも忘れられない』と涙で言葉を詰まらせます。

ともあれ、そのとき姉は、父の体調を案じて長兄二人とぎりぎりまで家に残っていたのですが、いよいよ空爆が激しくなり、隣家に焼夷弾が落ち、わが家に類焼が始まったため、リアカーに父を寝かせて家を出ました。

外は凄まじい熱風で、体に付いても落ちないような火の粉がひっきりなしに舞っていました。リヤカーは捨て、道すがらにある防火用水や泥水を頭からかぶりながら必死で逃げ、ようやく隅田公園にたどり着くことができたのでしたが、その向かいにある待乳山聖天社も火災に包まれ、公園はすでに、避難者の人たちで大混乱、入り口の防空壕には亡くなった人たちであふれ返っていたといいます。

姉は『お母さんを探す!』と言い張ったようですが、『入ったら危ない』という父の決死の形相を見て、諦めざるを得なかったようです。

さらに避難するために言問橋を渡ろうとしたのですが、逃げる人たちが波のように押し寄せていました。また、持っている荷物に火がついてしまったり、川さえも水面に火炎が走り、人々の怒声が飛び交う、ただただ凄まじく恐ろしいばかりの光景が広がっていました。

姉は途中、父や長兄ともはぐれてしまったのですが、向島の橋の袂で運良く父にだけ出会え、向島側にある牛島神社の木の根元で夜を明かしたそうです。

朝になって様子を見に戻ると、言問橋は亡くなった人たちが山のように重なっていました。姉はそこを渡るときに『ごめんなさい』と謝りながら歩いたそうです。

母親が子どもに乳を含ませたままで亡くなっている姿やホースを持ったままの消防士、いたるところにまるでマネキン人形のように横たわって亡くなっている人たち……それは、まさしく地獄絵そのものでした。 

隅田公園の中もとても足を踏み入れられる状況ではなかったそうです。死体の山、山、山……。

母たちの行方はこれ以上探せないと泣く泣く諦め、それでも、もしかしたら自宅に戻っているのではないかと望みを託し、自宅に向かいました。でも、二人を待っていたのは、焼失し尽くした我が家だけでした。

『佐倉に行くから』と焼き板にメモを残し、東京を後にした翌日、次兄が隅田川の川べりで変わり果てた姿で見つかりました。長兄は助かりましたが、母と妹二人の行方は、結局分からないままとなりました……」

隅田川と言問橋

 

父は母を追うようにして亡くなった

古谷さんはその頃のことをこう振り返ります。

「父と姉が佐倉に到着したのは11日です。父は開口一番、『母たちは帰ってきていないか?』と尋ねました。

いないと知った途端、それまで張り詰めていた気持ちがプツリと切れてしまったのでしょうね。翌日……、本当にその翌日に、母の後を追うように亡くなってしまいました。

亡くなる前に『母さんと代わってあげたかった』と言い残した一言が忘れられません。

それからは毎日毎日、私は泣いてばかりでした。

母と妹の行方が分からないこともあって、死んだとはどうにも信じられなかった。いつかひょっこり帰ってくるんじゃないかとずっと待っていました」

古谷さんは、わずか数日の間に両親と兄弟3人を失ったのです。

その後、古谷さんと三男の兄は佐倉の親戚の家で育てられ、高校を卒業して就職を機に東京に帰ってきました。

ところで、余談ながら、古谷さんが佐倉で通った佐倉高等学校(当時は佐倉第一高等学校)では、あの長嶋茂雄さんが一級下にいたそうです。

 

書店の職を得て、第三の故郷・谷戸へ

経済的理由で大学進学を諦め、就職することにしたのですが、両親がいないというだけで採用を断られたりと理不尽な思いもしました。

それでも姉のご主人が経営する自動車整備会社の経理の仕事に就くことができました。仕事をやりながら簿記学校を卒業し、同社には15年勤めました。

その後、結婚して妻の両親のいる文京区大塚に移転。義理の父親が書籍取り次ぎ会社に勤めていたことから書店の仕事をやらないかと誘われたことが書店をやるきっかけでした。

谷戸に移ったのは、妻の親戚が田無近辺に住んでいたのが縁です。

「古谷家のお墓が小平にあり、田無の北原町と谷戸町に妻の親戚が住んでいて、お墓参りのついでにいつも立ち寄っていたんです。この辺りで書店やれたらいいねなんて話していたら、本当に売り地が出ましてね。それが、ここの谷戸商店街だったんです」

こうして古谷さんは、昭和42年に谷戸に住居を移し、平成22年までの42年間、本の小売店業を営みました。

西東京書店組合が発足した際には会長に就任、10店舗のまとめ役を担い、市内図書館及び市内の小中学校の図書館の納入を一手に引き受けるなど、地域経済の活性化に向けて精力的に活動しました。

また、谷戸商店街の理事長を2期4年勤めたほか、事務局長、広報、会計を歴任し、現在も商店街の事務局の仕事をしています。若い人たちの補佐のほか、事務手続きや書類作成、税務署に提出する決算書の作成や申告等、いろいろな諸手続きを請け負って日々忙しく過ごしています。

昨年出版した谷戸商店街50年史の編集にも携わり、古谷さんが撮影した写真もたくさん使用されています。

そんな谷戸商店街への思いを、

「私にとって第三の故郷です。ここで骨を埋めるつもりです。亡くなった両親が導いてくれた場所だと思っているんですよ。
本当にいい人ばかりで、いい出会いをたくさんもらった。近隣の小学校の先生たちとも交流して、大好きな山登りを一緒に楽しんだり、男の料理教室や書道教室など多趣味でした。ここに住んだおかげでいろいろな思い出ができました。

今、市内の商店会はどんどん解散していて商店街運営が厳しい現況です。
これからの若い人たちは大変だと思いますが、商店会は人と人が繋がれる場所、心の拠り所になる場所です。私もみなさんと一緒になって、精一杯盛り立てていきたいですね。

きっと両親も、そんな私の姿を安心して見守ってくれていると思います」

と語ってくれました。

 

焼死体の写真が母に見える

古谷さんは新たな土地で充実した日々を送る一方で、大空襲当時のことをどうしても知りたい一心で、当時の新聞や東京大空襲関係の書籍を買い集めては、母と妹二人の消息を知る手がかりがないかと調べ続けていました。

「真っ黒に焦げ落ちた親子の焼死体の写真があったんです。見たとき、母ではないかと思いましたね。でも、妹はもう少し大きかったななどと思い直したり。

自分の中ではいつまで経っても納得できていない。母たちの死を信じ切れていない。まだ戦争は終わっていないんです」

そして毎年3月10日は、96歳の喜久子さんと88歳の三男の兄と3人で隅田川の川べりに行き、お線香をあげ花を手向け、お参りをしています。

今でも3人で集まると、亡くなった家族の話をしては涙ぐみ、「ここまで長生きできているのは、天国から守ってもらっているおかげだね」と口ぐせのように言葉を交わし合っているとのことです。

隅田川で撮影した写真を眺める古谷さん

 

「姉は今だに言問橋を渡れません。76年前のあの日、その時の光景が目に焼き付いていて、亡くなった人たちの上を歩いた、その感触が蘇ってきて、『怖くて怖くて足がすくむ』と言っています。

私自身が直接空襲を体験しなくて済んだのは幸いだったと思っています。もっとひどい人たちもいっぱいいる。私は運が良かった、生き残った。そして、こんなに長生きができています。

みんなの分まで生きていくことが自分の役目だし、この体験を語ることが使命と思いますが、被災者のほとんとが高齢になったり、資料館が閉鎖になったりと語り継いでいくことの難しさも感じています。

地震やコロナなど、人間にはどうしようもない災いがあるけれど、戦争は人間の心一つでなくすことができます。こんな悲惨な残酷なことは二度と起こしちゃいけないのです」

このように古谷さんは、語り継いでいくことへの意識も高まっているようです。

例年、3月10日には東京大空襲に関連する記事やTV報道が出ますが、今年の朝日新聞・夕刊では、海老名香葉子さんの平和活動が紹介されました。古谷さんは、その活動に深い共感を示します。

「実は30年前に、当時田無市の市民映画会の主催で、海老名香葉子さん『うしろの正面だあれ』の映画会が行われたことがあったんです。
その際、子どもたちに体験を話してほしいと依頼され、5分ほどでしたが、上映の合間に話をしたことがあります。あのときは、海老名さんの本の販売にも、少しは役立てたのではと思います。

海老名さんは『時忘れじのつどい』を続けていますが、本当に今、戦争の無残さを次の世代に伝えていくそのような平和活動が必要だと全く同感です」

そんな古谷さんは、現在自分史を執筆中だそうです。
そこには、どんな物語が綴られるのでしょうか。

2021/3/1

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