【地元再発見】「公立昭和病院」を生んだのは、100年前の感染症だった

感染者数が高止まりしているとはいえ、ひとまずは「外出自粛」「ステイホーム」などが解かれ、「新しい生活様式」のなかで日常生活が戻りつつある今。

このタイミングで改めて、地域医療を見つめてみました。

すると見えてきたのは、意外な事実でした。今回の新型コロナウイルスに対しても「最前線」となった公立昭和病院の設立にまつわるエピソードです。

 

公立昭和病院とは

東京・多摩北部の人たちにとっては欠かすことのできない存在である公立昭和病院。同院は多摩北部エリアの中核病院であり、救急や高度医療などで地域医療の要となっています。

その運営は、北多摩北部医療圏に入る小平市、西東京市、東村山市、東久留米市、清瀬市と、さらに小金井市と東大和市の計7市によって行われています(7市で構成する「昭和病院企業団」が開設者)。

現在は31科を開設し、病床数は延べ485床を設置。高度救命救急センター、地域がん診療連携拠点病院、地域周産期母子医療センターなどの役割も担っています。

新型コロナウイルスに対しては、呼吸器内科などが中心になって診断・治療を行い、発熱外来も開設。4月上旬には勤務する看護師の感染が判明するなど、まさに地域医療の「最前線」として、活動してきました。

多摩北部の医療の中核を担う「公立昭和病院」

その発足の経緯は……

そんな同院ですが、ホームページを見ていて、その沿革に「昭和4年7月 伝染病院として業務開始」とあるのに気付きました。

伝染病院?

これは調べないわけにいきません。

そこで紐解くと……。

まず分かったのは、江戸時代末期から明治、大正とコレラ、チフス、赤痢といった伝染病が断続的に発生していたことでした。

例えば、1858年(安政5年=井伊直弼・大老就任の年)には、江戸中でコレラが流行し、江戸だけで10万〜20万人が亡くなったといわれます。

また、現在の公立昭和病院がある小平市を例にとると、前述から4年後の1862年(文久2年)にもコレラが流行し、人口1200人程度の「小平村」で80人以上の死者が出たという記録が残されています。

当時、コレラがいかに恐ろしい伝染病だったかは、1886年(明治19年)の東京府全体の死者数が9254人に達し、その率は、年間死亡者全体の約22%に当たるものだったということからも分かります。

 

病院がない悲劇

このように断続的に伝染病が猛威を振るったものの、当時の多摩北部には十分な病院がなく、患者が出た場合は、荷車に乗せて約30キロ離れた埼玉県川越の病院まで運んだといいます。

30キロを荷車で運ぶとなれば、いかに健脚の当時の人々といえども重労働。一日がかりの作業で、病院に到着する前に患者が事切れることも少なくなかったようです。

小平村では、1897年(明治30年)5月にも赤痢が流行し、患者約260人、死者60人超という惨事に見舞われています。当時の小平村の人口は、約5000人(記録が残る明治33年時点で5243人、743戸)。一日に7人が亡くなったという記録もあり、少し前の欧米に見られた「コロナ」による医療崩壊ではないですが、死者を弔うことができない状況もあっただろうと想像されます。

やや不謹慎かもしれませんが、この値を現代に置き換えると、今の小平市(19万5145人=2020年5月末時点)で、患者が1万148人、死者が2342人に上る計算となります。

現在の「コロナ」への私たちの警戒心に照らしてみると、桁違いの脅威であったことが分かります。

 

明治〜昭和初期の伝染病の多さのワケ

それにしても、なぜこうも伝染病が頻発したのでしょうか。

大きな原因として指摘されるものに飲料水があります。

江戸市中に水を供給していたのは、多摩川から羽村堰で取水する玉川上水です。上流で伝染病が発生すると、瞬く間に、下流にも広がったとみられています。

小平村においては、玉川上水から引いた用水を飲料水、生活用水としており、水を介して、急激な伝染病の拡大が起こっていました。1916年(大正5年)の赤痢・腸チフス流行の際には、用水を断水して伝染病を防いだともいわれています。

 

田無警察らの掛け声で伝染病院設立

このように伝染病発生が数年おきに繰り返すなか、地域に病院を設置しようという機運が高まっていきます。

それがいよいよ現実のものとして動き出したのは、昭和初期のチフス、赤痢流行のときでした。

呼びかけたのは、伝染病予防救治対策の主務官庁だった警視庁衛生部です。所轄の田無警察署と協議し、当時の田無警察署管内であった田無町、保谷村、武蔵野村、小平村、久留米村、清瀬村、東村山村、大和村の八町村に声をかけ、合同での伝染病院設置が進みます。

正式な申し合わせがあったのは、1927(昭和2年)10月のこと。それから約2年後の1929年(昭和4年)7月17日、小平村に「北多摩郡昭和病院」が開院しました。

この際、設置者に国分寺村も加わっており(昭和8年に小金井村も参加)、自治体による合同運営が今日まで引き継がれています。

開設時の病院の規模は、敷地3695坪、木造瓦葺き平屋(一部2階建て)で、病室は28室。伝染病床は51床という規模でした。当時の敷地図を見ると、消毒室が別棟で設けられています。

なお、現在地が選ばれたのは、地代の安さに加え、近隣に住民がほとんどいないという事情がありました。病院の性格上、伝染病を扱うため、周囲に人が暮らしている場所では反対運動に遭ってしまう恐れがあったのです。

そのことを知ると、現在でもやや交通の不便さを感じさせる公立昭和病院ですが、なんとなく寛容な気持ちになってくるから不思議です。

 

その後の公立昭和病院

このようにして始まった「昭和病院」は、1年も経たない翌1930年(昭和5年)1月17日に火災で全焼するなど幾多の苦難を乗り越えながら、次第にその性格を総合病院へと切り替えていきました。

医療業務においてとりわけ困難だったのは、1941年(昭和16年)から終戦直後までの数年間だったと記録されています。医師不足、物資不足、食糧不足という状況がある一方で患者数は多く、伝染病では延べ約2万人、一般病では同7000人の入院を年間で受け入れていたようです。

戦後は、戦前のチフス、赤痢に変わって「結核」が主な疾患となり、1952年(昭和27年)の時点では、219床あるうち8割近い171床が結核に用いられました。さながら、結核療養所のようだったといわれます。

不治の病だった結核が減少していったのは1960年代で、1962年(昭和37年)には、結核用の病床を減らして、産婦人科、外科、小児科、整形外科を新設します。ここから完全に、総合病院へと姿を変えていくことになります。

1972年(昭和47年)には現在の公立昭和病院に名称を変更。1984年(昭和59年)には地上6階・地下2階の現在の母体となる本館を落成。

平成に入り、救命救急センター、災害拠点病院、東京都認定がん診療病院などに指定・認定され、年々、この地域における医療拠点としての重要さを増しています。

なお、同院が伝染予防法の廃止に伴い、伝染病床50床を廃止したのは1999年(平成11年)のことです(ほぼ同じタイミングで感染症指定医療機関(第2種)の指定を受けています)。

すでにお気づきとは思いますが、上記のように「昭和」に入って間もなく開設されたことから「昭和病院」の名がついています。

※参考文献:『小平市史 近現代史編』『小平町30年史』『小平市医師会史』『公立昭和病院90年史』

2020/8/17

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