清瀬中里保全地域にほど近い「円福寺」は、江戸時代初期に開山されたとみられる曹洞宗の寺院です。
現在地は、路地の奥のひっそりした佇まいですが、記録では村の中央にあったとされています。
柳瀬川流域に水田が開かれていたはずで、小さいながらも村が形成されていたのでしょう。
まずは45秒ほどの動画で、境内の様子をご覧ください。
動画(46秒)
中世の頃に薬師堂の可能性
円福寺は空堀川から駆け上がる段丘にあり、境内に面した崖の上に、薬師堂を構えています。
この薬師堂の由来は、あるいは円福寺自体よりも古い可能性があります。円福寺門前には、かつて福泉寺という寺があったとみられており、同寺と薬師堂が一体のものだった可能性が指摘されています。
薬師堂に納められている薬師如来坐像は、光背を含めると2メートルを超えるという規模で、日光菩薩立像、月光菩薩立像を脇に侍らせ、さらに十二神将を従えています。
熱のこもった造りがされており、当時の信仰の深さや、寺院の力を思わせます。
後の円福寺住職が寛保3年(1743年)に残した記録では、十二神将は平安後期の仏師定朝によって造立されたもので、寛保3年の頃にはにかわや漆がはがれ、薬師如来に至っては台座だけになっていた、と記されています。
寄木造を完成したとも評される著名な定朝の作とはなかなか信じられませんが(実際、確証はない)、いずれにせよ、その様式から室町時代以前の作であることは確かなようで、その観点からも、円福寺が開かれる以前から薬師堂はあったものと考えられています。
蛇足ながら、仏師の話題でいえば、円福寺の本尊・釈迦坐像は運慶の作ともいわれていますが、これも伝承の域を出ないようです。
なお、前述の薬師如来坐像、日光菩薩立像、月光菩薩立像、十二神将は、いずれも清瀬市指定有形文化財になっています。
薬師信仰で栄える
医療にかかわる薬師如来への信仰は篤く、特に江戸時代は、門前に市が立つなど繁栄したようです。
円福寺の住職・元暁和尚が寛政8年(1796年)に曹洞宗本山・永平寺の住職に就任したという記録も残っており、円福寺は格の高い寺院であったようです。
現在も広い境内と薬師堂を持つ同寺では、信仰を重んじるさまざまな石像などを眺めることができます。案内する石碑等も多く、見どころの多い寺院です。
400年記念の三重塔
その最たるものが、関山400年を記念して建てられたという三重塔です。
削られたばかりの木目の美しいこの塔は、ともすると何百年も風雨にさらされた塔こそ価値があると思いがちな私たちに、今ある信仰の重みを気付かせます。
また、平成3年から5年までの賽銭を活用して建立したという白山妙理大権現の鞘堂にも興味を引かれます。
その「案内」によると、白山妙理大権現は本地垂迹に従って日本の仏教に取り入れられた神様のこと。
清瀬市野塩から東村山市久米川の地域では、葬儀から四十九日間は神様に近づけないという習俗があり、その喪の期間にどうしてもお祝いの席などに出席する場合、白山妙理大権現に詣でてお払いをしたとのことです。
そうした地域性のある習俗を語るところに、いかに円福寺が地域に根差してきたかが分かります。
そのほか、十三彿の石像や門前の地蔵など見どころは豊富です。
琵琶懸の松 伝説
最後に、薬師堂にまつわる伝説をご紹介しましょう。
昔、ある目の不自由な琵琶法師が、ご利益のある薬師様にすがりたいと何日も堂にこもって「目が見えるように」と願いました。
満願の日。
こわごわ目を開けてみると、なんと、薬師様の姿がはっきりと見えて……。
夢かと思った法師は堂を飛び出し、境内に立ちました。そこで見えたのは、松の葉の緑でした。
法師は、うれしさのあまり、生きる糧だったはずの琵琶を松にかけたまま、旅立ってしまいました。
以来、人々はこの松を「琵琶懸けの松」と呼ぶようになったとのことです。
——と、こんな伝説ですが、薬師信仰がいかに広まっていたかを示すような話です。
薬師堂の近くには、それらしき松の姿は見れないものの、「琵琶懸の松 由来の地」の石碑も置かれています。
この寺院及び薬師堂では、信仰が受け継がれ、今なおここに生きていることが感じ取れます。
すぐ近くの中里緑地保全地域、空堀川流域にはウオーキングコースも整備されており、地域の散策路として、ぜひ一度は訪ねてみてほしいスポットです。
なお、戦時中、清瀬病院が空襲の被害を受けた際には、犠牲者となった患者たちをここの墓地に大きな穴を掘り、警防団らの手でまとめて埋葬したとも伝わっています。
データ
円福寺
◎東京都清瀬市野塩3丁目51